【映画ネタバレ感想】『シークレット・スーパースター』だからインドに音楽映画を撮らせたらヤバいとあれほど
どうもこんばんは、綾繁です。
最近ハマっているものはDevil may cry 5のサントラです。昔から主に仕事などでストレスが溜まると悪魔も泣き出すサントラを聴き倒してToo easy !!な気分に浸る癖があります。もちろんストレスのないときにも聴きます。そのときはJack Pot !!な気分です。僕は何を言っているんだ
事程左様に音楽というものは人の気分を上げたり下げたりするわけですが、音楽といえばインド人、インド人といえば音楽というのはもはや映画界では常識ですよね(?)。インド映画はちょっと油断するとすぐに異様に伸びやかな歌と尋常でなくキレのあるダンスを差し込んでくることで知られています。多分劇団四季とかがライオンキングみたいに舞台化しても「本家でよくない?」ってなりそう。
今回観てきた『シークレット・スーパースター』はそんなインド映画の多分に漏れずとにかく歌に心を動かされる作品でした。主人公インシアを演じるザイラー・ワシームの歌はシーンごとの情動とリンクしており、僕ら観客の精神にダイレクトに届けられてくるかのような感覚を覚えます。
ネタバレなし感想はこちら。
以降はネタバレありでの感想です。
目次
ブルカに隠された歌声
インド映画には音楽が不可欠であるといいつつ、本作が他のインド映画と異なっているのは「物語に音楽が挿入されている」のではなく「音楽自体をテーマにしている」点であり、劇中音楽への力の入れ方が凄まじいのはもちろんのこと、「音楽だからこそ描けるシーン」という必然性についても非常に興味深いものとなっている。
何を言っているかというと、「ブルカをかぶっていても歌声は届けられる」ということ。この演出は非常に秀逸で、父親から隠れて投稿しなければならないという事情と、それでも歌を歌いたいというインシアの願いの折衷案としてこの上なく妥当であり、抑圧の象徴としてのブルカを使うことにもメッセージ性があり、なおかつ人々の関心を誘うことにも説得力を持たせている。
そういえば日本のYoutube文化、ニコニコ動画の頃はマスクマン大量発生でみんながシークレットでしたが昨今は顔出しが普通になっていますね。グローバルスタンダードは若者から始まる。
男性の善悪を描くバランス
本作では主人公インシアの父親が物語を通じての敵役として描かれている。ともすれば「男性による支配が生んだ悲しみ」一辺倒で描かれてしまいそうなところを、善玉の男性として菩薩のごとき心の優しさとロバストネスを誇るチンタン、無邪気で思いやりのある弟、そしてアーミル・カーン演じるシャクティが登場することでバランスをとっている。ひとつの属性を悪として描いたうえでバランスをとるためには、3人ものキャラクターに善を担わせなければならないというのはひとつの示唆かもしれない。僕がチンタンだったらあっという間に音を上げる
ただ中でもシャクティは(善玉であるのは間違いないとしても)妻との離婚問題で揉めているなど、若干悪玉寄りなところからスタートしているのが印象的。彼を最初から善玉としてのみ描くのではなく、インシアの振る舞いから影響を受けて、音楽的に正しい道に戻るのとリンクさせる形でインシアの味方になっていくのは非常に上手い。
そして個人的に、父親を徹底的に悪として書いているのはむしろ好印象だった。ここで「父親にも彼なりの思いがある」というような描き方をしてしまうと、映画のテーマのひとつである「古い価値観からの脱却」がぶれてしまうため。それに対するバランスのとり方として、他のキャラクターをとことん善玉に描く、というのは非常に優れた感覚の賜物だと思う。
またこれは、昨今ときどき見かける「もともとジェンダー絡みではないのに強引にジェンダー要素をねじこんだ映画」に対するひとつの解決策ともいえる。本作は最初からジェンダー要素がテーマの一部になっているので、他の要素もそれを前提に設計されており、違和感がない。「ベースは変えずに特定の要素だけをねじ込む」というのは完成されたトランプタワーに後から1枚足そうとするような行為であり、基本的にはおためごかしにしかならない。
成長という意味では母親の変化が最大
この物語の主人公はインシアだけれど、もう一人の主人公、というより成長幅という意味ではインシア以上に主人公しているといっても過言ではない存在が、彼女の母親。彼女こそインドの古い価値観と制度が生んだ悲しい存在であり、「父親に結婚させられ、娘に離婚させられる」という台詞は古いものと新しいものに挟まれた彼女の悲哀を端的にビビットに示している。
娘に何度も叱られ(時には罵倒され)ながらも変わらない愛情を注ぎ続ける姿はそれでもしっかり母親であり、けれども父親からしっかり娘を守りきれない弱さを持っているなどの未熟な部分もあり…と複雑な立ち位置に置かれた姿にとても同情的になってしまう。
だからこそ、クライマックスで父親に反旗を翻す姿は別人のように立派で、美しく、力強い。最初から進歩的な思想を持ちえたインシアよりも尊い力強さといえるのかもしれないし、今現在苦しんでいる人達に向けたメッセージという意味でも、この尊さは意図的に強調されているのだと思う。しかも彼女はブルカを身に着けたまま夫に逆らっており、逆説的に心の在り方の大切さにつながっているようにも感じられる。母親役のメヘル・ヴィジュの熱演に拍手。
物語的な意味でも、インシアが独自に動いた結果を一度は拒絶しつつも、結局はそれが決め手になっているあたりが上手い。インシアの想いは無駄にならなかった。
個人をエンパワーメントする時代
「古くて時代錯誤な価値観」を打ち破るための手立てとしての「SNS(Youtube)」は、個人のエンパワーメント(力をつけること)の象徴として描かれている。それは単にテクノロジーを利用しましょうというだけにとどまらず、自分にできることを一歩踏み出せば世界は良い方に転がりうるのだ、という応援のメッセージでもある。
ここでのエンパワーメントは「個人が直接世界にアクセスできる」というテクノロジー的な話と「個人を勇気付ける」という精神的な話の両方がリンクしている、といえる。
古い価値観の軸足は「集団としての最適化」に置かれている。共同体が円滑に存続していくことが優先され、個人は共同体の1パーツとしてみなされ、それこそ「夢」など語る余地すらなかった。
事の是非はさておき、現代の先進国で重視されるのは「個の尊重」だ。自分のことを自分で決められる自由を持つこと、夢を追いかけられることが最も大切であるとされている。その象徴として、「固有の特技を活かしたYoutubeでの発信」というのは狙い澄まされた演出であるように感じられる。
とはいえ、唯一気になるのは「インシアのような才能がない人々はどうしたらいいのか」という点。この映画のテーマからすれば言いがかりのような視点ではあるのだけれど、「世界から注目されるレベルで歌が上手い人」というのは極めてレアなケースであり、そんなケースでなければ助からないというのは本作の本意ではないだろう。
才能に頼らずとも、自分の意思さえあれば道を切り開いていける…というのは、次の段階で求められるテーマなのかもしれない。
映画と社会問題と正義の関係性
これまで述べてきたように、本作はインドにおける社会問題をテーマのひとつに据えた作品であり、単なるエンターテイメント作品にとどまらない重みを内包している。
冒頭のネタバレなし感想に、こんなことを書いた。
人間は情報取得の大半を視覚に頼っていると言われる。とりわけ映画という媒体はそこにストーリーという引力が搭載される強力な概念装置だ。
映画で社会問題を描くことは、視覚的表現とストーリーで耕した心に、問題意識の種を蒔く行いであるといえる。
映画という媒体は、特定の社会問題について人々に問題意識を持ってもらうにあたり、最良の手段の一つであるといえるだろう。
しかし、忘れてはならないのは映画という媒体がプロパガンダ的な文脈でも使われうるという点。感情移入をする、というのは強い問題意識を持つところまでは良い動機になるけれど、思想的な正しさというのは本来は理性によって検討されるべき性質のものだ。映画を通じて関心を持つのは大いに素晴らしいことだけれど、映画によって生まれた感情のままに思想を染めるということについては、個人的には理性のワンクッションを置くことを提唱しておきたい。
というのも、感情やマインドセットというのは、古い価値観を保持するうえでも原因のひとつとなってしまう。本作で描かれたような硬直した価値観というものは、「制度」と「人々のマインドセット」が相補的な関係性を作り出し、再生産されているという側面もおそらくある。
当初は(当時なりの方法で)共同体を存続したいという人々の願いが制度を作り、やがて時代が下るにつれて「制度に従うことが正義だ」という思想を生む。制度から外れることを過度に恐れるようになる。しかしその先に、新しい価値観は存在し得ない。主人公であるインシアが作戦を立てたりして理屈っぽく見えるのは、周りの登場人物達が既存の制度に背くことを恐れているのに対して、理性で対抗しようとしているからかもしれない。まあインシアも随分感情を発露しているし、あの舌打ち連発はちょっとキツいけれども
正義が感情から生まれてしまえば、結局はまた硬直的な制度とそれに盲目的に従う人々を作り出してしまう。僕らがこの映画から学ぶべきは「インドの古い価値観は本当にひどい! 改善されるべき!」ということ以上に、価値観を現代に適した形で、理性的に更新しようとするインシアのスタンスそのものなのかもしれない。
…なにやら随分と真面目な話になってしまったけれども、アーミル・カーン演じるシャクティの愛すべき、様子のおかしなヒーローっぷりを見るだけでも劇場に足を運ぶ価値がある、と確信しています。