映画、ときどき人生。

作り手の意図や物語の構造から映画を眺めたい人の記録。

【映画ネタバレ感想】『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』と『トイ・ストーリー4』比較考 期待を超えて

連日ドラクエ映画ネタを書き綴る綾繁です。こんにちは。

本作に別段恨みがあるというわけではなく、ドラクエ映画は元々の自分の映画の見方に対して非常に示唆的な作品だったというのが大きいです。

 

その「自分の映画の見方」を書いたのが以下の記事。

ayashige-story.hatenadiary.com

 

さて、今回取り上げたいのはつい最近公開され、こちらはこちらで話題になった『トイ・ストーリー4』。ネットでの評価はこちらの作品も割れているように見受けられる。ちなみに僕は「あり」派。

 

www.disney.co.jp

 

単体での感想は以下のnoteに記載しています。

 

note.mu

 

なぜこの二作品を比較しようと思ったのかというと、どちらも

 

「その作品に対して思い入れのある人々」に対して、

「その人達が想定/期待するのとは異なる方向性への展開を見せた」

 

という共通点があるように感じられたから。

 

そして僕自身の感想が、『ユア・ストーリー』は「なし」だけれど『トイ・ストーリー4』は「あり」と異なっていたことも動機の一つ。

 

 

 

 

同じものだけど…ちがった奴をくれ!

 

それが完全なる新作ではない限り、どんな作品にだって大なり小なりファンは存在するし、彼らは新たに公開されるシリーズ最新作や関連作品に対して相当量の期待を寄せている。

かくいう僕も、長年待ち続けた末にもはや「僕が死ぬ前に出てくれればいいや」という無我の境地に達してしまった作品がある。十二国記って言うんですけど。ついに2019年10月に新刊が出るよ! 出るよ!

 

十二国記は相当に先が気になる状態で新刊発売がストップしてしまったので、ファンが次の展開や謎の多い世界観について狂ったレベルで考察しており、「全部回避して次の物語を書くのは不可能なのでは」とも噂されているけれど、さすがにそこまではいかなくとも、ファンなら次の作品にさまざまな期待を持つ。

 

ファンが持ちうる期待は、きっとこうだろう。

「これまで慣れ親しんできた作品の核を損なうことなく、新しい要素を追加したものが見たい」

 

物書き界隈では有名らしい脚本術の本に『SAVE THE CATの法則』というものがある。そこではこんなフレーズが紹介されていた。

 

「同じものだけど…ちがった奴をくれ!」

 

とてもよくわかるし、当たり前の話でもある。

同じものなら過去作品を何度も見ればいい。違うものなら何の関係もない映画を見ればいい。

 

そうではなく、僕らは言語化できないまでも自分なりに愛着を感じている「作品の核(以下「コア」」とでも呼ぶべき何物かが根底から覆されない範囲で、これまでとは違う要素を持った物語を見たいと感じている。

 

しかしこのコアの言語化は難しい。捉えどころがなく、言葉にした瞬間に嘘になるような類の概念だけれど、定義するとしたら「削ぎ落としてしまったらその作品がその作品たりえなくなる要素」となるだろうか。

自分なりに二作品についてコアを書き下すと、以下のようになった。

 

  • ドラゴンクエスト5』:ゲームであるということもあり、おそらく愛着の対象は筋書きとキャラクターそのもの。心に残ったエピソードは削ってほしくないし、主要キャラであれば誰が欠けても不満に感じる。
  • トイ・ストーリー4』:「おもちゃはいつでも持ち主である子どもを心から大切に感じて行動している」というおもちゃ達の行動原理。それとウッディをはじめとする主要キャラクター達。

 

まあ結論ありきでちょっとずるいような気がするけれども、同意してくれたら嬉しい。そして上のようなコアを是とした場合に、『ユア・ストーリー』も『トイ・ストーリー4』も、どちらもコアから離れた展開になったことで話題になったように思われる。
さあそろそろ「コア」ゲシュタルト崩壊してきた頃だろうか

 

『ユア・ストーリー』はそもそもドラゴンクエストの筋書きの範囲を逸脱し。

トイ・ストーリー4』はおもちゃであるウッディがボニーと別れて自分なりの道を歩き始める。

 

作品を進化させるということ

 

「同じものだけど、ちがった奴」は二つのパターンが考えられる。

一つ目は「 A. コアは同じだけど、新しさがあるもの」。もう一つは「B. コア自体が正当に進化したもの」。

この辺りはつい言葉遊びに陥りそうになるけれど、頑張って具体化すると、

 

Aの場合は

コア以外の要素を変更する→コアに入力する→コアの価値観に従った結果が出力される

 

Bの場合は

コアに新たな要素を付与する→コアの価値観に従った新たな結果が出力される

 

という感じになるだろうか。

 

トイ・ストーリー』シリーズで具体的に見ていくと、『1』は起点なのでいいとして『2』『3』までは Aパターンで新作が作られたが、『4』はBパターンで作られた、と表現することができる。

 

 Aパターンの場合、コアに関与しない部分を変更するだけでいくらでもシリーズを続けられる。敵がおもちゃではなく動物であろうと、舞台が深海や宇宙であろうと、コアさえ保持されていれば、ナンバリングタイトルとして納得してもらえるだろう(多分)。

 

Bパターンの場合はどうか? この場合、コアに内包された要素が、観客が潜在的に欲していた方向で進化させることができるか? がカギになる。

 

Bパターンで成功した作品は何か…と考えると、あまりすぐに浮かばないことに気づくことと思う。そもそもBの方が難しいのだ(たくさん出てきた方、是非教えてください)。

主人公が全く苦戦しないダイ・ハードダイ・ハードだろうか?

全編ヒーリング・ミュージックが流れるワイルド・スピードは存在しうるだろうか?

ライオンが出てこないライオン・キングは多分物凄くハイコンテクストな作品になってしまうに違いない。哲学かよ

 

Bパターンをやるには、観客自身よりも観客に対する深い洞察を持っていなければならない

ビジネスっぽくいえば、観客の潜在ニーズを見抜く目が必要になる。

 

強いて挙げるなら、名探偵コナンの映画シリーズはBパターンに近いかもしれない。これは決して悪い意味ではないし反対意見も出るかもしれないけれど、ぶっちゃけコナンがあまり推理しなくても人気キャラが出ていれば満足度は維持できるのでは? という気がしている。このご時世、あれだけ人気が出るキャラクターを連発できるのは尋常のことではない。

 

トイ・ストーリー4』がBパターンを選び、僕がそれに肯定的なのは、一つにはトイ・ストーリー自体への思い入れがファンの人達よりも薄いから、というのが間違いなくあると思う。コアへの意識が薄ければ、コアと異なる描かれ方をしてもそれほどは気にならない。

 

しかしそれ以上に、コアが変質する様を丁寧に描いていたから、というのがある。

自分の生まれにこだわるフォーキーをたしなめるうちに、自分もおもちゃとしての生まれにこだわっていることに気づくウッディ。おもちゃとしての生まれから脱した先輩であるボー・ピープ。与えられた場で愛されるより、自分で新たな場を選ぶことを決めたギャビー。これはトイ・ストーリーという作品のコアを確立していながら、新たなメッセージを打ち出そうとする制作スタッフ自身のスタンスとも呼応する。

 

それでもコアが変わってしまうことを受け入れられないファンは一定数以上はいるだろう。コアに愛着が強ければ強いほど、受け入れがたいと思われる。

 

翻って、『ユア・ストーリー』はどうだったか。

 

例のオチを見せられるまでは、「妹はどこへ行った?」などの疑問はありつつも、何とかドラクエ5としてのコアは守れていたように思う(そもそも本作は「5」の文字すらなかったけれども)。

 

しかしそのギリギリ守られてきたコアは、例のオチに至った瞬間に粉々になった。変質する様を丁寧に描くどころの騒ぎではなかった。あの空からバグったテクスチャーが伸びてきた瞬間の得も言われぬ悪寒は筆舌に尽くしがたいのでできれば劇場で体験してほしい。「アッこの作品今まさに一番見たくない方向に行こうとしてる」と否応なく突き付けられるあの感覚は他では味わえないものだ。
強いていえばプレゼン中に客の顔が曇ったときが一番近い

 

以下の『ユア・ストーリー』単体感想にも書いたことだけれど、Bパターンをやるにしてももう少し早いタイミングで例のアレを仕掛け、主人公がゲームの世界を大事にする理由とか、ゲームの中の登場人物が作りものであっても愛すべき存在であることを強調するとか、そういった説得力が不可欠だったのではないだろうか。

 

note.mu

 

けれど作品は成熟する

 

上で『トイ・ストーリー4』を肯定したように、Bパターンのすべてが悪いと言うつもりはない。Aパターンに比べて難しいとは思うけれど、上手くやれば新しいファン層をも取り込むことができるだろう。

 

それに、Aパターンだけをひたすら続けていると、今度は別の問題が生じてくる。

マンネリ」というやつである。

 

 今更水戸黄門にド派手なVFXを要求したり、サザエさんの登場人物に劇的な成長を期待したりする人はいないだろうけれど、延々とAパターンをやり続けて許されるポジションというのもそれはそれで「国民的作品」のような特殊な存在であり、少なくとも映画という媒体ではあんまり見かけない。寅さんと釣りバカ日誌くらいだろうか。

 

観客の期待に応え続けるのか、それともどこかのタイミングで期待を超える何かを生み出そうとチャレンジするのか

 

個人的には、期待を超えるものを見たいとは思うし、ここまで好き勝手言い続けた手前恐縮ではあるけれども、チャレンジし続けるスタンスというのは途絶えてほしくないとは思う。願わくば、可能な限り作品と誠実に向き合ったうえで。