【映画ネタバレ感想】『イソップの思うツボ』に見るどんでん返しの明暗
皆さんは、騙されたいですか?
こんばんは、綾繁です。
騙し騙されることが珍しくないこの寒々しくも厳しい現代社会において、物語だけはある意味で慎重に隔絶された聖域のように「騙す」ことが許容され、ややもすれば神聖視さえ受けているというのは非常に興味深い事象。
僕たちは物語を鑑賞しているうちに限っては、心のどこかで物語が騙してくれることを願っていたりもする。どうかこれまで鑑賞してきたたくさんの映画と似たような喉越しではなく、新しい味を感じさせてくれ、と。
あの社会現象にまでなった『カメラを止めるな』のスタッフが手がける『イソップの思うツボ』は、公開前からそのような「騙し」をポスターなどで宣言してきた作品であり、制作側の自信がうかがえる。
以下、ポスターの煽り文句。
- ウサギとカメ、そしてイヌが騙し合い⁉︎
- 予測不能の騙し合いバトルロワイヤル!
- 3人の少女が出会う時 最高の奇跡が起こる
本作品は本筋に触れずに感想を書くのが難しいというか、その筋書きこそが作品の全てだと思うので、早速以下からネタバレ感想です。『カメラを止めるな』のネタバレも一部含みます。
目次
どんでん返しの必要条件
観客を騙す、ということを最も人口に膾炙した言い方をすれば「どんでん返し」という言葉を用いるのが適切だと思うけれど、そのどんでん返しを行うためにも要因というか、結構な条件が揃っていなければ狙った通りの効果が出にくくなる。何の脈絡もなくそれまでの前提を覆し続けるだけの映画があったとしてもそれを面白いとは決して思わないだろう。
「え、①AはBだとずっと思っていたのに、実はCだったなんて! となると②あのシーンで感じた違和感はDではなく、Eだったからか! あっちのシーンの意味も変わってくるぞ…この作品の伝えたいことはFだと思っていたけれど、このどんでん返しのことを考えると③Gという更に深いメッセージも考えうるな…」
多分、どんでん返しを仕掛ける側が一番狙っている観客の反応は、上のような感じなのではないだろうか。得たい反応から逆算して必要条件を推定してみよう。
①AはBだとずっと思っていたのに:フェイク情報への引き込み
騙すためには、そもそも信じている必要がある。フェイクの情報にどっぷりと浸からせる。フェイクの情報を信じることを強化するようなエピソードをどんどん追加していく。刑事が実は犯人ならば、刑事として事件を追う姿を殊更丁寧に描くことになる。
②あのシーンで感じた違和感:伏線
とはいえ、伏線は張らなければならない。一つはフェアネスのため、もう一つは観客に「新しい解釈」を脳の中で次々に生じさせるために。
伏線を一切張らなければ、「いや、でもそれは気づけるわけないじゃん」と興醒めしてしまう。これはどんでん返しの方法論というよりはストーリーテリングそのものの話になるけれど、読者を騙すためには「気づこうと思えば気づけたはずなのに!」という気持ちにさせなければ、「これはフェアな物語ではないな」と感じて感情移入から離れてしまう。
また、伏線を張るのは作中での描写の意味が切り替わるトリガーとしての機能も果たす。伏線が多数仕掛けられていればいるほど、どんでん返しが生じた瞬間に観客が処理しなければならない「新しい味」が増えるのだ。そしてそれが増えるほど、観客の好奇心が満たされていくことになる。
人間というのは好奇心が服を着て歩いているといっても過言ではない生き物であり、常に自分が知らないこと、新しいこと、驚くべきことを求めている。どんでん返しで生じる作品世界の反転と新情報の氾濫は、好奇心にとって非常に魅力的な刺激となる。
③Gという更に深いメッセージ:作品テーマの強化
作品自体のテーマやメッセージと全く関係のないところで生じたどんでん返しは、上記の「好奇心にとっての魅力的な刺激」は多少なり得られるとしても「だから何?(so what ?)」という感覚を与えてしまう。どんでん返しは返しっぱなしではなく、それによって作品の存在意義そのものが深められなければならない。
「猿の惑星」のどんでん返しが魅力的なのは、これまで知らない惑星を探索しており、だからこそ自分たちの知らない文明が生まれているのだ、と信じてきた前提が丸ごと覆り、作品内で起きていた事象の解釈が全然違ったものになるからだ。そこから生じる絶望感は尋常のものではない。
『カメラを止めるな!』のどんでん返しが美しい理由
『カメラを止めるな!』は上記の観点で改めて考えると、随分とうまくできていたのだな、と改めて思わされる。
①のフェイク情報への引き込みについては、そもそも作品が持っている手作り感やB級感自体がフェイクへの入り口なのだけれど、まだ無名の監督やキャストが作り出した映画であるという前情報が、疑いをかき消してしまう。
②伏線についてはそもそもタイトルが伏線であるというのもあるし、作中でところどころ現れる大小さまざまな違和感も伏線だった。しかし①が徹底されているおかげで、僕らはその伏線をスルーしてしまう。「無名な人達の手作りな映画だからしょうがないか」みたいな。だから随分大きな違和感を覚えさせる伏線についても大胆に仕掛けられてしまう。
③作品テーマの強化についてはそもそもテーマが何だったかというのもあるけれども、一つには「映画をなんとかして成功させたい」という監督役の人のひたむきな願いとその成就だろう。一言で言えば映画愛。そのテーマを謳うのに、これほど適した構成もなかなかない。前半で見せられるのは、その映画愛の結晶そのものなのだから。
『イソップの思うツボ』のどんでん返しがちょっとよくわからない理由
ここでようやく『イソップの思うツボ』の話に戻るけれど、ここでネタバレ感想を読んでいる鑑賞済みの方の多くは僕が言いたいことを既にわかってくれているのではないだろうか。もはやここまでの流れ全部が伏線のようなものだ。
どうにもこの「観客を騙す」という行為そのものが上手く機能していないのである。
物語前半では、今の時代であれば「陰キャ」と形容されてしまいそうなほど地味な大学生活を送る亀田美羽と、「日本一の仲良し家族」などというタレント活動をしているキラキラした女子の兎草早織が、若い教員を巡って恋愛バトルを繰り広げそうな雰囲気で進む。なるほどウサギとカメの寓話だ。多分余裕をかましたウサギがカメに負けるのだろう。
…と、そのまま進んでいくはずが、結構早めの段階で物語全体の空気が不穏に傾く。①のフェイク情報への引き込みを深めていかなければならないフェーズだと思うけれど、亀田と兎草のテンプレ的なシーンをちょっと描写された程度なので、彼女らが多少なり僕らの印象と異なる態度を取ったとしても「ああそういう面もあるのね」くらいにしかならない。
不穏な空気の要因となっている復讐代行の二人のうち、娘である戌井小柚が本作の3人目の少女となる。イソップで犬といえば、肉をくわえたまま水面に映る自分に吠えて自分の肉まで失ったあの愚かで欲張りな犬かしら。
などと考えながら見ていると、話は誘拐に関するものになり、やがて亀田美羽がそこで暗躍していることがわかる。え、そんな伏線あった?
さらに教員は実は亀田美羽の兄で、兎草夫妻のマネージャーが父ということがわかる。あ、そうなの。知らなかったけど気づけるヒントもなかったし、それはそういうものとして理解しておくね。
「日本一の仲良し家族」が抱えている秘密が明かされる。でも別にテレビのキャラが真実だとは限らないのは作品に限らず常識の範囲のことだし、そういうこともあるのかもしれない、としか思わない。どんな家族だって大抵何かしらの問題は抱えている。
母親が事故死しているということがわかり、亀田美羽が見ていた母親は幻覚だったというエピソードになる。それも別に伏線とかはなかった(あっても気づかなかった)ので、特に驚きはない。
ところで、やたら暴力的な戌井小柚さんはこの誘拐現場で何の役割も果たしていないけれど何しに来たの? 3人の少女が出会ったけど何一つ奇跡は起きていなくない?
ヤクザが仕込み役で、裏にはVIPで嫌らしい感じの、カイジに出てくるような観客がいたと。台本が出てきた時はカメ止めのような劇中劇パターンか! と思ったけれど存外に作品内で完結した動作だったし、これも特に伏線などはなかったので「そうなんですか」と流れていく。
亀田美羽がカメっぽかったのは最初だけで、別に地道な努力をして何かを得たわけでもなく、むしろヤクザの手を借りるというチートに等しい行いでウサギを追い詰める。
ウサギはウサギで兎草早織は両親がヒドい人間だったものの本人はむしろそれに巻き込まれただけで、自分の能力にあぐらをかいて怠けたせいで失敗するとか、そういうこともない。
イソップのイヌの名前を割り当てられるほど欲張りでもないし、もっといえば何のために出てきたのかよくわからない。作品内ですら「事情を知らない人間がいた方がいいだろ」というだけの理由で誘拐劇に参加させられている有様。
亀田美羽の「ゆっくりと生きたい」みたいなセリフも、屋上からカメを投げた理由も、最後にカメが歩いていく描写も、意味はよくわからない。
ポスターの煽り文に至っては、
- ウサギとカメ、そしてイヌが騙し合い⁉︎ →イヌは騙してない
- 予測不能の騙し合いバトルロワイヤル! →カメがウサギを一方的に騙している(イヌは関係ない)
- 3人の少女が出会う時 最高の奇跡が起こる →奇跡は起きていないし、イヌは出会っていないに等しいほど他の二人と会話してない
と、むしろ場外で騙されているのではないかと訝りたくなってくる。
③の作品テーマの強化についても、多分テーマは親子愛なのだろうとは思うけれど、カメは娘にあんなことをさせる親って何なんだよという感じだし、ウサギの家族はカメの希望通り崩壊したし、イヌは唯一親と良好だけれど本筋とほとんど絡んでいない。
どのようにイソップの思うツボなのかは最後まで観てみてもわからない。むしろイソップ先生もなぜ自分の名前がタイトルに使われたのかいまいち判然としないのではないだろうか。
観たかった『イソップの思うツボ』
と、言い募るだけでも忍びないので、自分はどういう作品を観たかったのかを少し考えてみる。
ウサギはタレント活動をしていることを鼻にかけた嫌な奴キャラで、カメのことを常日頃からバカにしており、カメはそれに甘んじている。
しかしカメは非常に回りくどいが地道な方法で、ウサギに対して恨みを晴らす準備を着々と進めている。
それに協力しているイヌは、実はウサギとカメの対立によって一番自分が利益が得られるだろうことを確信している。
ところがイヌの活動を、偶然にもウサギが知ってしまう。
三者は実際に会って会話したことが一切ない状態でそれぞれの活動を進めていくが、自分たちの家族の予想外の行動により、お互いの目論見がバレないように必死に取り繕う必要が生じる。やがてそれも限界に達し、3人が一堂に会した時に思いも掛けない出来事が起きる(未検討)
このような内容が本作よりも面白いだろうと言う自信はないし、どんでん返しも明示していない状態だけれど、少なくとも「イソップの名を冠した意味」「家族愛というテーマ」「騙し合い」「バトルロワイヤル」「奇跡が起きる」みたいな設定と煽り文句を全て生かそうとしたらこういう形になるのではないか、と思う。ヤクザの役回りをイヌにさせたりとか、それだけでもイソップ伏線は回収できるかもしれない。
オープニングの入り方とか、絵作りのセンスとか、そういった観点で目新しさを感じる部分もあった一方で、「観客を騙す」という狙いを適切に機能させるための作法をおろそかにしてしまうと観客はついていけなくなる。
確立された作法というのはそれが機能するから作法として成立している部分も多々あるし、目新しさだけでは人の心は動いてくれない。人の心を動かすには、「そうあってほしい状態」の定義と、「そこにたどり着いてもらうためのルート設計」を相当緻密に行う必要があるし、「騙されたことに喜んでもらう」なんてある意味で奇特な感情を想起させるためにはなおさら練り上げられたプランが必要になる。
有名キャストを使わなくても、名の売れた監督でなくともシナリオのクォリティが高ければ口コミなどでヒットを飛ばすことができる、というのは非常に重要な事例だし、そんなヒットパターンを生産できる作り手として期待をさせて頂きたいというのが本心。
次の作品もまた近い作風で作ってくれるかはわからないけれど、心地よく暖かく騙してくれる優れた作品がまた観られることを期待している。