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【映画ネタバレ感想】『天気の子』の考察:神話を交えて各論点を考える

天気の子はやはりもう一回観ておきたい、という気持ちになったため2度目の鑑賞をしてきました。ここ最近だと2度目の鑑賞は『アベンジャーズ エンドゲーム』以来です。

 

1度目の鑑賞後の感想はこちら。

note.mu

 

目次

 

本作における「天気」とは何か?

 

いきなりです。上の感想でも多分書いていると思いますが、天気という非常に普遍性が高い題材をテーマに選んでいる以上、普通の天気以上の意味合いが込められているだろうということで、この観点は最初に考えたい。

 

本作における天気とは何かというと「人々の気分」だと思うわけです。作中では「天の気分」とされているけれど、作品を外から見たときに何のメタファーになっているのか、という意味では、やはり人々の気分、なのだと思う。

 

現代の、とりわけ日本という先進国のさらには東京という大都市においては、過去に天気の巫女が活躍していた時代に比べれば随分と生存しやすくなっている。けれど現状に満足することが決してない、というのが人間の良いところでも悪いところでもあるわけで、「生存」が得られれば次は「快適」を追い求めるようになる。

 

そもそも、天気に何か願うとすれば、普通は「雨乞い」が最初に出てくるわけで。その理由は当然ながら、農作物を育てるには雨が必須だったから。でもそれを現代に置き換えると、「快適な天気であってほしい」という願いになる。

 

快適に過ごせることと農作物を育てることを同列にすると、深刻さに隔たりを感じるかもしれない。けれど、人の生活を快適にするサービス産業への従事者が全体の75%を占めるこの国で、快適さというものが自分自身の存在の是非のようなものに直結している度合い、というのは過去の比ではないのだと思う。

 

だから晴れなのか雨なのかは違えど、今も昔も天気の巫女は、人々の切実な願いと幸福のために犠牲になってきたということなのだろう。

 

でもそれが正しいわけではないのは作中で示された通りで、結局雨が止まない世界になった後の人々は、雨にも慣れて普通に楽しく暮らしている。瀧くんのおばあさんが言うように、長い目で見れば「元に戻っただけ」だし、気象神社の神主が言うように「たかだか100年程度の観測史上」で慌てても仕方がない、ということなのかもしれない。もしくは、最後に述べる「大丈夫」のおかげ…なのだろう。きっと。

 

雨を連れてきた少年

 

帆高が高校を卒業する場面のうち、黒板が映るシーンで「神津島」と書かれているのが読み取れる。1度目の鑑賞では気づかなかったけれど、彼は神津島の出身らしい。僕も一度旅行で行ったことがあるけれど、とにかく綺麗で魚の美味しい場所だった。

 

ところで、神津島には「竜神を祀る岩」や「水配りの伝説」など、水にまつわる伝承があったりする。それともう一つ、物忌奈命神社というものがあるのだけれど、これについては後述する。

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龍神といえば占い師のセリフにも出てきたように、雨と関連の深い神様だ。空の上のシーンも雲のような巨大な龍が登場していた。

帆高は猫のアメを連れてきたが、神津島から雨(記録的な豪雨)を連れてきた、ということを示しているのかもしれない。

 

そもそもなぜ異常気象になっていたのか?

 

帆高が東京に来てからの雨の描写が印象に残りがちだけれど、そういえば帆高が雨を連れてくる前から、東京は雨が多くなっている。晴れ女活動をしてから抑制されていた雨が反動のように増えて記録的な豪雨になった…というのは半分正しいけれど、そもそも雨が多いから晴れ女ニーズが強かったという面もある。

 

ネットでも多く見られる考察に、陽菜さん(ついこう呼んでしまう)のチョーカーの由来に関するものがある。曰く、陽菜さんの母親が病床で身につけていたブレスレットと同じデザインである、とのこと。そして陽菜さんが天気の巫女であることを放棄したシーンではそのチョーカーは外れている。

 

これらを考えると、チョーカーは天気の巫女であることのサインであり、母親から娘に継承された、ということになる。母親が晴れ女活動をしていたようには見受けられないから、天気の巫女でありながらも能力は使わなかったので、透明にはならなかったのだろう。

 

母親が存命の時には、チョーカーはブレスレットとしてまだ母親の手首にある。そして「陽菜さんと天気が繋がっている」という作中の言葉と照らすと、帆高が東京に来る前に増えていた雨は、陽菜さんの母親の悲しみ(継承前)、母を失った陽菜さんの悲しみ(継承後)が原因なのではないだろうか。

 

雨と、陽菜さんの感情と

 

天気は「人々の気分」のメタファーと前述したのは作品を外から眺めたときの意味付けであり、作品内で何と連動しているのかというと、陽菜さんの感情の揺れ動きなのだと思う。

 

小説では(映画にもあったっけ?)帆高が陽菜さんの家を初めて訪れた際に「連続降水日数が2ヶ月間以上」というようなニュースキャスターのセリフを聞いている。厳密な時期は検証できていないけれど、その時点から2ヶ月前ってちょうど陽菜さんがバイトをクビになった頃ではなかっただろうか。

 

子ども達3人で池袋の街を彷徨った時にどんどん天候が悪化していったのは、陽菜さん自身の不安が増していったことと連動しているのだろう。東京が記録的な豪雨に襲われたのは、陽菜さん自身が人柱になってしまうということを聞かされた後のこと。そしてホテルに着いたからといって雨が止んだりしないことを見ると、ちょっとやそっとの安堵では拭い去れない不安が渦巻いているのだろう。

 

上記のように考えると、作中のほとんどで雨が降っているということ、陽菜さんはほとんどの期間でひたすら悲しみと不安に襲われており、それでも自分のためでなく人のために晴れを生み出していた、ということになる。それはなんて巫女らしく、そしてかなしいあり方だろうか。帆高もそれに感づいていたからこそ、あれだけ悲しみ、怒ったのだろう。優しげな陽菜さんの声音を見事に演じ切った森七菜さんに賛辞を送りたい。

 

大人だって成長する 須賀さんスサノオ

 

作中において、頑張っているところがわかりやすいのは帆高だけれど、成長という意味では須賀さんも負けていない。これはネットの考察でも見かけた気がするのだけれど、須賀さんのモデルは須佐之男命(スサノオなのだろうと僕も思う。

 

スサノオは神話の中で、最初は母親に会いたいと駄駄を捏ねる問題児、姉である天照大神が天岩戸に引きこもる原因を作った際は粗暴な超問題児、けれども八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を倒した際にはスーパーヒーロー、というように、成長する神様である。そして八岐大蛇を倒した後に降り立ったのが、「須賀」の地であるらしい。

 

ちなみに小説版では、須賀さんは兄弟(夏美さんの父親)との折り合いが悪いと書かれているけれど、上記エピソードを鑑みるとそんなところもスサノオっぽい感じがする。銃を持った複数名の警察を相手に帆高を守るシーンは、八岐大蛇と戦うヒーローなスサノオの姿だったのかもしれない。神様だって成長するのだから、大人も成長するのだろう。

 

帆高は大国主神になれるのか

 

高校を卒業し、東京に再びやってきた帆高の大学での専攻は農業。雨が終わらない世界になってしまった中での農業のあるべき姿を追いかけようとしているということであれば、それもやはり世界を変えてしまったことへの責任意識の表れなのだろう。

 

ところで、上述したスサノオは国産み神話にも関わっている。葦原中国、つまり日本を創造した大国主神は、スサノオの子孫であり、農業の神様でもある。

 

本作では陽菜さんの父親は出てこないし、帆高は父親と折り合いが悪い(小説版によれば、冒頭で帆高が顔に負っている傷は、父親に殴られたものであるとのこと)。作中で唯一登場する「父親」がスサノオをモデルとした須賀さんであることを考えると、帆高の実質的な父親も須賀さんであると言えるのかもしれない。これから帆高は、日本を産み直していく立場になっていくとも考えられる。

 

大国主神は最終的に、高天原からやってきた天照大御神の使者に国譲りを要請されることになる。天照大御神を陽菜さんだとすると、帆高が頑張って国を産み直し、それを最終的に陽菜さんに譲り渡す(陽菜さんにとって良い世界を提供する)…なんて展開だったらいいなぁ、と思う。

 

ちなみに、天照大御神の使者から国譲りを要請された際、それに応えるかどうかについて、大国主神は自分の子である事代主命に決めさせている。その事代主命の子に当たるのが物忌奈命であり、それを祀っているのが前述した神津島物忌奈命神社だったりする。なんかちょっとループしているかのようで面白い。

 

子どもと大人と世界との距離

 

小説版では、須賀さん視点でのこんなセリフがある。娘からの電話を受けた後の独白。

世の中の全てのものが自分のために用意されていると信じ、自分が笑う時は世界も一緒になって笑っていると疑わず、自分が泣く時には世界が自分だけを苦しめていると思っている。なんて幸福な時代なのだろう。俺はいつ、その時代をなくしたのだろう。あいつは--帆高は今でも、その時代にいるのだろうか。

本作はセカイ系の作品だ、というトーンでの感想を時折見かけるけれど、セカイ系と呼ぶには少々世界と自分との関係性について自覚的過ぎるようにも感じられる。メタセカイ系なのかもしれない。メタでセカイというのはもはや宇宙か。

 

天気の子における主人公が子ども達なのは、きっとまだ世界との距離が近い年代だからなのだろう。天気と感情が連動しやすい年齢。世界に属する色々なものを大事にしたいと感じている年齢。

 

大人である須賀さんは、「大事なものの順番を、入れ替えられなくなる」と嘯く。「誰かがなにかの犠牲になって、それで回っていくのが社会ってもんだ」と語る。

 

世界と自分の一体感を失い、世界のどこかで自分のために誰かが犠牲になることを他人事のように受け入れるスタンス。大人と子どもの境界に立つ夏美さんは、その言葉に腹を立てながらも反論できずにいる。

 

自分の生活が何より大事で、自分のためになってくれている人達を意識さえしない。

かつてよりも繋がっているはずなのに互いを無視し続ける社会に降り続ける雨。

大人の世界の論理に突きつけられた、身勝手で正しい銃口

 

誰かの犠牲を当然視して成り立つ世界を拒絶し、自分の気分に自分で責任を持つ世界を呼び込むラストが、あの帆高の決断なのではないかと思う。

 

大丈夫になること

 

小説版の終盤付近で、帆高は「あの日から、人々の顔つきがかすかに変わった」と述べている。

雨続きで憂鬱でもおかしくないのに、聞こえてくるのはどこか楽しげな人々の生活の声だ。

 

祈りには世界を変える力がある、というセリフがどこかにあった。また小説版の野田洋次郎さんの解説では、こんなことが述べられていた。

 

「僕たちはこの世界の美しさも、醜さも、儚さも、悲しさも、自分たちで決めることができる。」

「僕達は自分自身でこの世界を定義できる」

 

それは、あるいは巫女なんかよりずっと上位の、神様としての立ち位置だ。帆高は世界の変化をどう捉えるか悩んでいたけれど、自分達が世界を変えてしまった、という認識だけは手離さなかった。むしろ大事にしていた。

 

それは言い方を変えれば、自分達は世界を変えることさえできるのだという力強い確信であり、また自分の作った世界に責任を持たなければならないという覚悟の表れなのだと思う。

 

ここに来て、国産み神話になぞらえられた意味がようやくわかってくる。これは世界に翻弄される中で生き延びる『君の名は。』を超えて、世界の姿を自分自身で定義しようという決意と責任感の物語なのだ。

 

人は誰かにやらされているのではなく、自分の意思で、責任を持って何かをしているときにこそ充実感を得る。

 

陽菜さんが天気の巫女としての立場を放棄したあの日、人々は自分の気分の責任を押し付け、犠牲にする先を失った。行き場のなくなった責任は自分に返ってくるけれど、それは充実と表裏一体の持ち物だ。

 

映画のラストを飾る「大丈夫」の歌詞には

君を「大丈夫」にしたいんじゃない  

君にとっての「大丈夫」になりたい

というものがある。

 

大丈夫だということを振る舞いを以って体現していくという帆高の意思と、大丈夫だと感じられる世界を作っていきたいという願いがここからは感じられる。

 

そしてそれは何も帆高だけが担うものではなく、天気の巫女の喪失により責任を取り戻した人々、引いては僕ら自身が背負っていかなければならない「世界/セカイ」なのだろう。

 

現代の国産み神話は、雨を連れてきた少年が太陽の巫女と出会い、大人達の無責任を豪雨によって洗い流して、新しい世界を作り始めるところで終わる。

 

普通の神話と異なるのは、その役割が神様だけでなく、市井に暮らす一般の人々にも背負わされている点なのだろう。

 

自分の中で未解決の論点

以下はまだ自分の中で落とし込めていない疑問点なので、答えをお持ちの方は教えて頂けると嬉しいです。
  • 帆高は風がなければ進まない船をイメージさせるけれど、それって凪くんは天敵になってしまうのではないだろうか。
  • 小説版では、ムーの特集記事に「未来人」「気象兵器」「人柱」という単語が踊っている。3つのうち2つまでが(兵器かどうかはともかく)作中で言及されているわけで、残る「未来人」も何かあるのだろうか…瀧くん…?
  • 老刑事の名前は安井、リーゼント刑事の名前は高井、らしい。何か意味がありそうだけれどよくわからない。
  • 夏美さんは神話の登場人物の誰かと重ねられていたりするのだろうか。
  • 銃はかなりのキーアイテムだけれど、上手いこと上記の考察の中に組み込めていない。子どもが大人に対抗するための力? 帆高の狂気(信念)の強さと危うさの表れ?