映画、ときどき人生。

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【映画ネタバレ感想】『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』と『光のお父さん』比較考 ゲームと世代

こんにちは、綾繁です。あやしげと読みます。名前に意味はあまりありません。割合普通の人だと思います。

 

note.mu

 

巷を騒がせている『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』単体の感想は上記のnoteに書いていますので、批判的な感想に対する耐性を身に着けておられる方は是非ご覧ください。

 

さて。

 

僕は『ユア・ストーリー』よりも幾ばくか早く公開された『劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』の方も鑑賞しており、そちらは恥ずかしながら劇場で涙ぐんでしまったりもしたのだけれど、この2019年に国民的ゲームを題材にした映画が立て続けに公開され、そのうえ装備しているテーマも似通っているとくれば、休日に結構な時間をゲームに投下している綾繁さんとしてはスルーするわけにはいかない。隻狼はね……いいよね……

 

以降は些かの躊躇も持たず両作品のネタバレを連打していくので、受け入れ態勢が整った方から順に奥の通路へお進みください。

 

 

そもそもゲームというものは世代によって大きく印象を違える娯楽なのではないか。と思います。綾繁はそう考える。世代論にいろいろな物事を紐づけるのはあまり好まないけれど、ゲームは時代によってあまりに扱いが違いすぎている。

 

chosa.nifty.com

 

拾ってきたアンケートで恐縮だけれど、やはり全体的に年齢別分析が一番ビビットに違いの抽出されそうな結果となっている。

 

僕が小さな頃は、ゲームというのは大人達にとってとにかく悪いものであり、「ゲームは1日1時間」という縛りプレイすぎる制約条件のもと、様々な障害をかいくぐってテレビの前でピコピコしていたものである。ピコピコ。この表現もよく聞いた。「お母さんにゲームを隠された」「お母さんが問答無用でセーブする前に電源を抜いた」「お母さんが…」ととにかくゲームにとってお母さんという存在は天敵だった。お母さん、ひいては大人達はゲームを毛嫌いしていた。

 

そして時代は下り。

ゲームの目的意識/存在意義は多様化し、大人の遊興に耐えうるテーマ性とシナリオを有するようになったこと、そしてゲームプレイ世代自身が大人になったことなどから、ゲームは(重課金などの行為を除いて)市民権を得て、無条件の悪としては扱われなくなった。

 

ところで、山崎総監督は現在55歳(1964年生まれ)とのことだ。同じく制作に携わった八木監督も同い年、花房監督はもう少し若くて40代。

ファミリーコンピュータ発売は1983年。山崎総監督は当時19歳くらい。

スーパーファミコン発売は1990年。ドラゴンクエスト5発売は1992年で、そのとき既に28歳くらいになる。

 

www.jiji.com

www.famitsu.com

 

上のインタビューを読み限りでもドラゴンクエスト5はおろかゲーム自体に強い思い入れもなさそうで、だとすると「ゲームは悪いもの」的な価値観を大人サイドの立場として持っていた世代、ともいえるのではないか。

 

「ゲームは実は悪いものではないんだよ、僕は肯定するよ」というメッセージを『ユア・ストーリー』から受け取ったとき、子どもの頃にさんざんゲームについてお小言を言っていた大人が手のひらを返してきたように感じられた。そして次に感じたのは「何をいまさら」という白けた気分だった。

そのあたりの解説は以下サイトに詳しい。

jp.ign.com

 

そしてこの世代論をある意味で逆手に取ったのが、『劇場版 ファイナルファンタジーXIV 光のお父さん』だった。公開順として光のお父さんの方が先だったこともあり、上述のメッセージがなおさら白けて感じられた側面もあると思う。

 

光のお父さんは、むしろ「ゲームから距離の遠いはずの世代」(実際には、お父さんは若い頃にもゲームをやっていたけれども)が最新のゲームにハマっていく過程を描くことで、「大人が手のひらを返す」のではなく「大人も一緒になって遊んでしまう」姿を提示した。

 

ドラゴンクエスト世代、ファイナルファンタジー世代である僕らを童心に帰らせたのであれば、見せてほしいのは宗旨替えをした大人のあさましい姿なのではなく、僕らと一緒になって楽しんでくれる姿だ。小さい頃、「どうして大人は一緒にゲームをしてくれないんだろう、こんなに面白いのに!」と感じた人も多いのではなかろうか。その感情を上手く昇華してくれるだけの丁寧な描きぶりが光のお父さんにはあった。少なくとも僕は成仏した。

 

構造も見事に対照的で、『ユア・ストーリー』はゲームの世界を主軸に書きながら最後に現実世界を描いた一方、『光のお父さん』はあくまで現実世界を軸足にしながら時折お父さん達が遊ぶゲームの画面が映る。

 

これは前段でリンクを貼った単体感想にも書いたことだけれど、ゲームの中に閉じた状態でゲームを俯瞰的に観ることは、よほどの工夫がなければ構造的にできない。たとえばゲームの中のキャラが特殊な動きをして、観客側が勝手に現実世界を想起する……といったようなアクロバットが必要。あるいはデッドプールを連れてくるか。

 

なのでテーマに沿えば『ユア・ストーリー』は多かれ少なかれ現実世界の描写をせざるを得なくなるのだけれど、そこで必然性よりも衝撃度を重視した結果なのか、上映時間が残りわずかの状態から現実世界の存在が明かされることとなった。当然観客はついていけなくなる。最初から現実と虚構を行ったり来たりしていることがわかっている『光のお父さん』と比較すれば受け入れやすさは雲泥の差だ。

 

結局のところ、この差は「テーマに対して誠実に描き方を選択しているか」という観点に帰結する。ゲームの再評価・再定義をテーマとしたときに、「バーチャルだけど肯定するよ」と主人公に喋らせてしまうのか、それとも他者との新たな関係性が作れることをストーリー全体で示すのか。

 

過去と比べ、確かにゲームは肯定されうるものとなった。その描き方として、『ユア・ストーリー』と『光のお父さん』がこれほど対照的なものとなったのは、やはりゲームそのものに対する愛の深さに帰結するのかもしれない。光のお父さんの原作者はそもそもファイナルファンタジーXIVのヘビーユーザーである。

 

ゲームが現在問われているのは、それ自体の善悪ではなく向き合い方だ。たとえば『光のお父さん』の題材となっているオンラインゲームは、普通に生きていれば交わらないような人達との出会いを生み、また人との絆を深めるツールにもなりうる。その一方で、つい先日はロシアで『自殺を促すゲーム』なるものが流行して話題となっていた。

gigazine.net

 

多様化の時代において、これまで右向け右でみんなが否定していたものに良い側面が見出されたり、あるいはSNSを通じて自分だけだと思っていた趣味嗜好に仲間を見つけて肯定できるようになったりと、あらゆる価値観について捉え直される機会が生まれている。

 

不変の真理ではなく社会的な要素を含む映画を撮るのであれば、そんな時代の流れを汲んだ作品作り、というのもこれからは重要になるのかもしれない。