映画、ときどき人生。

作り手の意図や物語の構造から映画を眺めたい人の記録。

映画というフォーマットは物語を圧縮する/自己紹介に代えて

たとえば男性の平均寿命は約70万時間であることを鑑みると、映画というのはそのうちの2時間、約分すれば1/350000しか人生全体に対する占有率を持たない。実に短い。そんな短い時間しか費やさないものが人生に影響を与えるとしたらとんでもないレバレッジであるし、実際そうであるからこそ物語を楽しむための媒体として愛されているのかもしれない。

 

小説ほど腰を据えてじっくり長い時間向き合うということもなく、

漫画のように低いハードルで手軽かつフレキシブルに読めるということもなく、

ゲームみたいに自分の選択が物語に影響を与えることもなく。

 

 

考えてみれば2時間という謎の縛りを大前提として試行錯誤されるというのは随分とよくわからない話で、最初から物語展開の枠が決まっているという意味で他に連想されるのは「詩」や「俳句」である。それらを語れるような素養があるわけではないけれど、それでもその特質ににじり寄ろうとするのであれば、「フォーカスする」そして「そぎ落とす」という二つの行為が浮かび上がってくるし、その二つはおそらく映画という媒体においてもきわめて根源的な行いなのだと思う。

 

筆が遊ぶままに書き綴ることができるということでない限り、物を語るという営為には「書くことを絞り込む」プロセスが大なり小なり必要であるけれども、映画は上述した縛りのために、絞り込みのプロセスが持つ重みが他の創作物とはけた違いになる。それは往々にして饒舌なことが多い語り手という人種にとっては時に苦痛そのものであり、七転八倒しながら身を削るような取捨選択に勤しんでいるであろうことがありありと想像できる。

 

その代わりに得られるものは何か?

おそらくそれは純度なのではないかと思う。

 

その映画に託したいテーマを語りきるために絞って絞って絞りきったうえで最後の最後にひねり出されたプロットは、テーマの味を最大限に濃縮した珠玉の雫になる。

僕らはその雫を味わうべく、2時間で1800円(TOHOシネマズは1900円だ、如何ともしがたいが仕方ない)という、費用対時間でいえば抜群にコスパの悪い娯楽に足を運ぶ。

 

ギリギリの取捨選択の中で絞り込まれ、圧縮され尽くした物語構造はごまかしが効かないし、その物語に対して作り手がどれほど誠実に向き合ったかを如実に語る。

 

僕はそんな映画という媒体が要請するストイックさが好きだし、だからこそ作り手が描きたいテーマに対して、ストーリー展開や演出ががっちりと連動していることを好む。

 

そういうわけで、本ブログがよくよく用いる観点は作品が持つテーマとその語り口の関係性であり、それは映画という「感性に訴えるフォーマット」がその内に秘めている精緻なロジックを味わい尽くそうとする業の深い欲求に基づいている。